「吉原遊郭」は人工の水路に囲まれていた!?暗渠道をたどって歴史の紐を解く旅『道との遭遇』
ミキの昴生と亜生がMCを務める、全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』。今回は、川が流れていた場所の上にできた“暗渠道(あんきょみち)”をこよなく愛する道マニア歴15年の髙山英男さんが、東京都にある暗渠道から「吉原遊郭」の歴史の紐を解きます。
遊郭と水路には密接な関係が!?「吉原遊郭」を囲っていた人工の水路「山谷堀」
髙山さんと一緒に旅をするのは、功徳院(くどくいん)住職の松島龍戒(りゅうかい)さん。2人が訪れたのは、台東区の隅田川沿い。
(道マニア・髙山英男さん)
「暗渠と遊郭は密接な関係がある。吉原遊郭の歴史を語る上で欠かせない、遊郭にちなんだ暗渠道を巡りたい」
江戸随一の花街として栄え、文化の発信地としても賑わった吉原遊廓。江戸時代から昭和30年代まで、幕府公認の男女の社交場として隅田川の近くに存在していました。
そんな吉原遊郭にまつわる暗渠道をたどるため、最初に向かったのは山谷堀(さんやぼり)広場。江戸時代初期に開削された人工の水路「山谷堀」の痕跡として、広場の一角には水門や、「いまどはし」と書かれた橋の親柱が残っています。
そこから北西に向かってのびる細長い山谷堀公園は、かつて流れていた山谷堀が埋め立てられ整地されたそう。当時は吉原への水上路として使われ、船宿や料理屋が建ち並ぶほど賑わったこの堀は、「名所江戸百景」の一つに描かれています。
「この山谷堀が吉原に繋がっている」と髙山さん。暗渠道をたどると、公園の路上に設置された舟を発見!
(道マニア・髙山英男さん)
「昔は若旦那衆が、ここからこの猪牙舟(ちょきぶね)に乗って遊郭へ遊びに行ったらしい」
公園を抜けてさらに先へ進むと、吉原遊郭へ繋がる「衣紋坂(えもんざか)」に到着。
(道マニア・髙山英男さん)
「坂を曲げて造っている。異世界に入るときの気持ちを高めるためだったのではないかと。身支度を整えることもあったそう」
衣紋坂を進むと、見えてきたのは「吉原大門(おおもん)」。真四角の区画に造られた吉原遊郭は、内と外を隔てるように「周りを水路で囲まれていた」と髙山さんは言います。その理由は…
(道マニア・髙山英男さん)
「遊女が逃げないため。また、無銭飲食などでお客さんが逃げないため。聖と俗を区別するためとも言われている。あえて隔絶して、そこに入る楽しさの演出という目的もあったのではないか」
そんな堀に囲まれた吉原の出入り口は、大門(おおもん)の1か所のみ。その構造は、幕府が遊郭を監視しやすくするためとも言われています。
約2.8万坪あったという吉原遊郭をぐるりと囲っていた水路は「おはぐろどぶ」と呼ばれていたそうで、「遊女がお歯黒を水路に捨てたり洗ったりしていた」と髙山さん。
遊女が施していたというお歯黒は、何色にも染まらない色として貞操を守る意味が込められ、お客さんに対する誠意の印だったとも言われています。
なぜ土地に高低差?吉原遊郭が一段高いワケとは
石垣の護岸など、水路の痕跡が随所に残るかつての吉原。もともと沼地だった場所を造成するために高くしたため、土地に高低差ができたそう。おはぐろどぶから内部を見ると、遊郭だった土地がどの方角から見ても一段高くなっています。
そんな土地に遊郭が誕生したきっかけは 今から約400年前のこと。現在の東京・日本橋あたりに存在した「元吉原(もとよしわら)」まで遡ります。
当時、江戸の中心地にあり、風紀を乱すと懸念された元吉原は、「明暦(めいれき)の大火」により焼失。移転を余儀なくされます。
そこで目をつけたのが、当時は湿地帯で人も少なかった浅草。遊廓を造るため土地を造成し、周囲よりも高くなったこの街は、「新吉原(しんよしわら)」として江戸で最も賑やかな街へと生まれ変わりました。
遊廓の誕生から200年以上繁栄を極めた吉原ですが、明治以降になると人々は次第に新橋などの中心部に移り、吉原は縮小。おはぐろどぶも徐々に埋め立てられることに。
吉原衰退の最大の原因となったのが、震災や空襲による度重なる被災。関東大震災では火災から逃れようと、近くの弁天池(べんてんいけ)に多くの遊女が飛び込み犠牲になったと言われています。
そして昭和33年、売春防止法により約300年の歴史に幕を閉じました。時代に翻弄されながらも人々を魅了し続けたその煌びやかな世界は、今もなお語り継がれています。
2024年11月19日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より